『恒例行事と寒稽古』
著:結城光流

 確かに、失敗をした。
 下手をしたら大変なことになっていた。
 ので、くるだろうなぁとは思っていたのだが。
「昌浩、わかっとるな?」
 やっぱり。
 着物姿の祖父の言葉に、昌浩はしゃちこばった様子で頷いた。
「はい」
 いざこられると、やはり気が重くなる。
「では」
 晴明は鷹揚に、背後の紅蓮と勾陣と六合を顧みる。
「任せた」
「心得た」
 返したのは勾陣で、腕組みをしていた紅蓮と六合は黙ったまま息をついた。


(この話も「もし平成の世に少年陰陽師の登場人物がいたら。略して『現代パラレル(略せてないじゃん)』です。
本編とはあんまり関係ありません)


 郊外にぽつんと建っている安倍家は、広い。
 どれくらい広いかというと、平屋の母屋に離れに蔵に加えて、道場まであるのだ。
 道場といっても別に弟子を取っているわけではなく、安倍家の人間が鍛錬を行うための稽古場だ。
 板張りの道場は、ろくな暖房器具もないのでしんしんと冷える。基本の鍛錬ははだしで行うので、冬場はとにかく寒いのだった。
 庭を駆けてきた彰子が道場の入り口扉を開けると、床に胡坐をかいた紅蓮と、壁を背に立って腕組みをしている六合が目を向けてきた。
「露樹おば様から、いつごろ終わるか聞いてきてって言われたんだけど…」
 彼女の言葉に、紅蓮と六合は難しい顔をした。ふたりの視線が滑るほうを見ると、道着と袴姿の昌浩が、短めの竹刀を持って肩を上下させている。
 昌浩の前には、同じ長さの竹刀を持った軽装の勾陣が涼しい顔で立っていた。
「あと五十八」
 勾陣の声に、昌浩は一度呼吸を整えてから気合もろとも打ち込んでいく。
 踏み込んできた昌浩を最小限の動きで避けた勾陣は、彼の手首を器用にからめとると、ぽんと投げ飛ばした。
「わっ!」
 一回転した昌浩は、右肩から床に落ちてきれいに受身を取り、そのまま体勢を立て直す。
「脇が甘い。五十七」
「ちょ、ちょっと、休憩、しない?」
 息を弾ませる昌浩の提案に、勾陣は間髪いれず返した。
「さぼると晴明にノルマを増やされるぞ」
「いまのなし、つづけます」
「よろしい」
 昌浩は呼吸を整えながら踏み込んだ。
 竹刀が竹刀をはじく音が道場内に木霊する。ついで、投げ飛ばされた昌浩が受身を取る振動と、鋭く響く気合。
 靴を脱いで道場に上がった彰子は、紅蓮の隣にひょいと正座した。
 幼い頃から見慣れた光景だ。
 安倍の家は、あまり大きな声ではいえない家業を持っている。その後継である昌浩は、心と体を鍛えるために、物心つく前から合気道を学んでいるのだ。
 相手はいつも神将たちが務めているのだが、面白いようにぽんぽん投げ飛ばされるので、昌浩は受身だけは一流だという評価を得ている。
 勿論、受身以外もそこそこなのだが、どうも正しい合気道とは違う鍛えられ方をしているように彰子は思う。
 合気道にも大会はあると思うのだが、昌浩がそういったものに出場したことはない。
 学校では昌浩のほうが一年先輩になるのでよくわからないが、旧友たちにも武道の心得があることは言っていないらしかった。
 部活に入っていない昌浩は、まっすぐ帰る帰宅部だ。晴明の仕事を手伝ったり、色々と命じられたりしているために、部活をやっている時間が取れないのである。
 隣の紅蓮をちらと見て、彰子は目をしばたたかせた。
 昌浩が叩き込まれているのは、いわゆるスポーツの武道ではなく、実戦で相手を倒すためのものなのだと、最近わかってきた。
 安倍家の生業は、命の危険を伴う場合もある。だから、自分を守るために、相手をねじ伏せる技と術を学んでいるのだ。
 昌浩は、自分のそういう姿をあまり彰子に見せたがらないので、すべて予想なのだけれども。
「昌浩、どうしたの?」
 小声の問いに、紅蓮は視線を投げてよこした。
「昨日の仕事でちょっとな。取り逃がしかけた上に、やばかった。文字通りの命拾いだったんで、これだ」
 あごで勾陣と昌浩を示しながら、紅蓮は息をつく。
 曖昧な言い方をしているのは、本来は彰子に教える必要のないことだからだ。
 現代日本にも千年前と同じような闇が依然とうごめいていて、昌浩たちはそれを退治る仕事をしている。かかわると巻き添えを食うことがあるから、詳しいことは絶対に教えてもらえない。
 それは彰子を守るためだと知っているから、疎外感を覚えることはないのだが。
「俺たちがいても、最後の最後に自分を守るのは自分自身だからな。危険を回避するには、体に覚えさせるのが一番なんだ」
「そう…」
 投げられた昌浩が一回転して立ち上がる様が視界のすみに映る。
 彰子は首を傾けた。
「どうして勾陣が相手をしてるの?」
 普段は紅蓮や六合が相手をしているのだ。勾陣はそれを、いまの紅蓮や六合のように眺めていることが多い。
 紅蓮は渋い顔をした。沈黙している六合が、人身を取っているため明るい茶髪になっている同胞を一瞥する。
「……いま俺がやると、ついこてんぱんに叩きのめしそうでなぁ」
「…稽古なのよね?」
 胡乱な顔をする彰子に紅蓮は肩をすくめて見せる。
「踏み込みの甘さにだんだん腹が立ってくるんだ。ちなみに」
 ちらと六合を見やって、紅蓮は目をすがめた。
「涼しい顔をしてるが、こいつもたぶん同じだぞ。何しろ危機一髪を見てたからな」
 彰子は思わず六合を仰ぎ見た。人身を取っている六合は、肩につかない鳶色の短髪だ。
 パーカーにカーゴパンツという軽装の紅蓮にくらべ、無地のシャツにストレートパンツの六合は少しだけかっちりとした印象がある。
 十二神将というくらいだから神様のはずなのだが、物心ついた頃から接している彰子にとっては、年を取らない親戚のお兄さんたちという印象が強い。本当に血のつながりがある親類よりも、安倍家の人たちのほうが彰子にとってはよほど近しい。
 昌浩は相変わらず投げられている。これは昌浩が未熟なのではなく、勾陣が手練すぎるからである。人間と神将なのだ、昌浩が弱いということでは決してない。
「太陰たちは何をしてる?」
 抑揚の乏しい六合の問いに、彰子は少し笑った。
「さっきからおば様と一緒にお餅を丸めてるの。私は途中で抜けてきちゃったけど」
「そうか」
 年の瀬なので、本日安倍家では毎年恒例の餅つきが行われているのだ。
 露樹と天一、天后が蒸したもち米を、普段は蔵の奥にしまってある臼と杵でつくのである。
 吉昌は仕事なので、力仕事は神将たちが一手に引き受けてくれる。
「白虎と朱雀が軽々ついてるから杵を持たせてもらったんだけど、ぜんぜん持ち上がらないの」
「そりゃあそうだ、お前の細腕じゃあな」
 面白そうに紅蓮が笑う。
 水をつけて餅をひっくりかえす役目は女性陣が持ちまわるのだが、朱雀は絶対天一にはやらせない。
「青龍が黙々と鏡餅の形を整えてて、太陰と玄武が食べる分を丸めてる」
「ほう、青龍が」
 呟いたのは六合で、紅蓮はなんとも形容しがたい顔をしている。
 おそらく青龍は、不機嫌そうな顔をしながら、餅が固まるまで延々ぐるぐる回しているのだろう。つきたてのやわらかい餅が少しずつ冷めて形を保てるようになるまでには、少々時間がかかるのだ。
「おば様と青龍と天后の三人がかりよ。うちは部屋数が多いし、ここにも必要でしょ?」
 彰子は安倍家を「うち」と呼ぶのだ。諸事情により、幼い頃から何度もここに預けられてきたので、ごく自然にそう言うようになった。
「まぁな。みんながいるなら俺らはいいか」
 膝に肘を乗せて頬杖をつきながら、紅蓮が瞬きをする。人手が多すぎても混乱するだろう。
「あ、あと、風音さんにもあとで分けるから持っていってくれって」
「わかった」
 頷く六合から視線をはずし、彰子は投げられている昌浩を見る。
 勾陣は相当の技量を持っているので、昌浩に大怪我をさせるようなことはしない。だが、鍛える過程でできる痣や打ち身などは自己責任だから、無傷というわけにはいかないだろう。
 足を縦に開いて、胴は正面を向いて構える昌浩の姿勢は、下手な時代劇俳優よりもよほど腰が据わっている。
 ああやって背筋をのばして、前をまっすぐ見据えている真剣な面差しは、いつまで見ていてもあきることがない。
 竹刀のぶつかる音が響く。こんなに寒いのに、昌浩は額に玉の汗を浮かべている。踏み込むたびにそれが飛び散って、だんっと音を立てながら回転する様は一切の無駄がない。
 おそらく昌浩は、いま彰子が自分を見ていることにも気づいていないのだろう。稽古のときの彼は、驚くほど集中していて真剣だ。
 自分の命を拾うためだから、気を散じることはほとんどない。
 勾陣に投げられて転がった昌浩が、ふいに瞬きをした。
「……れ、彰子?」
「隙あり!」
 勾陣の振り下ろした竹刀が昌浩の頭を直撃する。ぱんっときれいな音がした。
「だっ…」
「集中しろ、あと三十四」
「はい」
 痛そうな顔で仕切りなおす昌浩に、勾陣は容赦がない。
 彰子は息をついて苦笑いをした。ごくたまに、気が逸れることもある。
 ひょいと立ち上がり、彰子はきびすを返した。
「もう少ししたら、また様子を見にくるから」
「ああ。そのときは何か飲み物でも持ってきてやってくれ」
 後ろ手を振る紅蓮に頷いて、彰子は道場を出た。


 キッチンでは、どういうわけか粉まみれになった太陰と玄武が、青龍に睨まれていた。
 露樹と天后が声を忍ばせて笑っている横で、白虎が額を押さえ、天一と朱雀が真っ白になった床を雑巾でぬぐっていた。
 テーブルの上には幾つもの鏡餅が並んでおり、居間では晴明が、物置から出してきた三方を丁寧に拭いている。
 小さい頃から変わらない。
 それがなんだか嬉しくて、彰子は小さく笑った。
 これが安倍家の年の瀬。

続く

⇒クリスマス小説:『焚き火と松の因果関係』

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