『逢魔ヶ辻は忘却に埋もれ』
著:結城光流

 若宮の鬼が、目を覚ます。


(この話も「もし少年陰陽師の登場人物が平成の世にいたら、略して「現代パラレル(略せてないじゃん)」です。本編とはほとんど、あんまり、おそらくきっとたぶん関係ありません)


 その三叉の辻を通ることはほとんどない。
 妙に嫌な感じがするので、近道なのはわかっていても、極力避けるようにしていた。
 だから、貸し出しの期限が迫っていなければ、いつものように大回りをして図書館に向かうつもりだったのだ。
 お守り袋に入れて肌身離さず身につけている符を握り締め、彰子は唇を噛んだ。
「失敗した…」
 時間も悪かった。いわゆる逢魔ヶ時なのだ。
 うずくまって息を殺しながら、そっと視線を滑らせる。
 分岐の前に小さな鳥居と社があるのだ。当初は丹塗りだったと思しき鳥居は、すっかりはげて色あせている。
 なぜこんなところにと気にかけるひともほとんどいないので、荒れるに任せた社は朽ちる寸前だった。
 社があるということは、いずれかの神か、それに匹敵する何かが祀られているということだ。
 神ならばいい。否、神にもいろいろな格があり、害をなす祟り神もあるから、一概にそうとは言えない。
「どうしよう…」
 日は刻一刻と落ちていく。落ちきってしまえば、藍の帳が覆う闇の領域に転じる。
 昼日中は清浄な気に満ちる神社も、夜には別の顔を覗かせるものだ。
 胸に手を当てて、意識してゆっくりと深呼吸をした。鼓動が早くなっている。
「今日は、図書館に行く、て…誰かに言ったかしら…」
 早鐘を打つ心臓をなだめながら、記憶を手繰る。しばらくそうしていた彰子は、二日ほど前にそんな話をしたことを思い出した。
 まだ半分以上残ってるんだけど、あさってには返さないといけないの。  
 ページを繰る手を止める彰子に、なら、あまり宿題が出ないといいなと言ったのは、確か安倍家の誰か。
「ええと……。あ、勾陣だわ」
 昌浩はいなかったと思う。晴明に呼ばれて席をはずして、彼を待っている間に本を読んでいた。そこに勾陣がやってきて、何を読んでいるのかと問われて。
 なんとなくほっとした。
 自分がちゃんと覚えているということは、彼女も忘れていないだろう。
 今日は図書館に寄ったあとで安倍家に向かうはずだった。あまり遅くなったら、昌浩たちが絶対に動いてくれる。
 だから、それまで頑張ればいい。
「うん、大丈夫」
 自分に言い聞かせる。
 きっと、こんなに危ない場所に入り込んでしまった自分を、みんなが叱るだろうけれど。
 ふいに、すぐ後ろで足音がした。
 ざっと血の気が引いて、鼓動が一層早くなる。
 握り締めた符が、汗で湿っていく。
 彰子は見鬼の才を持っている。いわゆる徒人より、危険を察する直感は鋭敏だ。
 だめ。振り返ってはだめ。まだ見つかってはいない。いま動けば、捕らわれる。
 呼吸が乱れないように全神経を注ぎながら、彰子は唐突に思い出した。
 確かこの場所を、若宮の辻と呼ぶのだ。

◆   ◆   ◆

 夕刻に差しかかった頃、珍しい相手から呼び出しを受けた安倍晴明は、青龍を伴って指定のコーヒーショップを訪れた。
 店内の席に空きはない。店外に並ぶ吹きさらしのテーブルについた客はまばらだ。
 その中でも一番端のテーブルに、晴明は目をとめた。
 無造作に足を組んで座る青年が、手にしたカップを掲げて見せる。ブラックレザーのジャケットを羽織り、タートルセーターとスラックスにいたるまで、すべて黒尽くめだ。
 漆黒の髪が寒風に遊ばれるが、端整な相貌は寒さなど微塵も感じていないようだった。
 老人は青年の正面に腰を下ろす。
「ここのカフェラテはそれなりに飲める」
 外気ですぐに冷えてしまっただろうカップを傾ける青年に、晴明はひとつ頷いた。
「そうですか。では、同じものを」
 老人の言葉を受けた青龍が、険のある目で青年を一瞥してからカウンターに向かう。それを見た青年は、皮肉げに笑った。
「相変わらず俺は嫌われている」
「嫌っているというわけでは…」
「気遣いは無用」
 手を振って晴明を制し、青年はテーブルに片肘をついた。
「息災か」
 主語のない問いかけに、晴明は動じることもなく答えた。
「ええ、元気なものです」
「多少は使えるようになったか」
「それなりに」
「では、貸せ」
 晴明は一度瞬きをした。そこに、カップを持った青龍が戻ってくる。
 目の前に置かれたラテをひとすすりし、老人は返した。
「お役に立ちますかな」
「立たないならそれまでの話。役立たずに用はない」
「手厳しい」
 嘆息まじりの晴明に、青年は口端を吊り上げた。
「心にもないことを」
 晴明は黙ってカップを傾ける。風にさらされるとすぐにぬるくなるので、おいしいと思える間にできるだけ飲まなければ。
 晴明の後ろに立っている青龍をちらと眺め、青年はカップの残りを飲みほした。カップをソーサーに戻し、そのまま立ち上がる。
「若宮の辻」
 目をあげる晴明に、青龍とほぼ同じ位置にある漆黒の双眸が、鋭くきらめいた。
「社は記憶の彼方に埋もれている。祀らねば暴れだすのが道理」
「刻限は」
「さて。何しろ管轄外でな」
 顔をしかめる晴明に、青年はぴしゃりと言い放った。
「これは忘却の代償。祀ることを怠ったがゆえのな。俺が狩るべきではない。だが、放っておけば罪なき者に害が及ぶ。温情だ」
「……存じております」
 感情を抑えてそう返す晴明の後ろで、青龍が凄まじい目をしている。苛烈な眼光を涼しい顔で受け流した青年は、目をすがめて厳かにつづけた。
「お前だけでは意味がない。あれにも叩き込んでおけ。強情さは諸刃の剣だ」
 言いたいことを容赦なく言ってのけた青年は、くるりときびすを返して歩き出す。
 それまで黙っていた青龍が、すべてを拒絶する背に低く吼えた。
「待て、冥官。すべてをわかっていながら押しつけるつもりか」
 青年の足が止まる。肩越しに投げられる視線はさながら氷刃だった。
「貴様の耳は飾りか。俺は温情だと言った」
「都合のいい言葉を並べているだけに過ぎん」
 青年の目がさらに鋭さを増す。
「十二神将青龍。千年前から変わらんな。非力なくせに口だけは回る」
「言わせておけば…っ!」
「青龍、引け」
 割って入った晴明に、青年は皮肉な笑みを向けた。
「安倍の当代よ。仮にも主なら、式のしつけはお前の役目だろうに」
「……官吏殿。ひとつ申し上げてもよろしいのならば」
「ほう。いいだろう、言ってみろ」
 傲然と促す青年に、古くから伝わる血を継いだ老人は、ひと刹那だけ抜き身の刃を思わせる目をした。
「これらを従えることは我が血の誇り。それ以上の暴言は、お控えくださいますよう」
 青年は黙って肩をすくめる。
 だが、立ち去る間際に一瞬見えた口元は、鮮やかに笑っていた。
 やれやれと息をつき、晴明は神将を顧みた。
「お前もなぁ。あの方の口の悪さはわしよりよほど知っとるんだから、聞き流さんかい」
 いなしてくる晴明に、青龍は忌々しげに舌打ちをしてあらぬ方を向く。  それを見ながら晴明は、千年前から変わっていないというのは本当なんだろうなぁと、しみじみ思った。

 
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