壁にかかった時計を見て、昌浩は眉を寄せた。
「遅いなぁ…」
 学校帰りに寄ると言っていたのに、彰子がまだ来ない。
 授業がすんだらすぐに帰ってこいと言い渡されていたので、昌浩は彰子を待たずに帰宅したのだ。
「待ってて一緒に来たほうがよかったかな。でも、じい様の言いつけだったし…」
 こたつに入ったままさっきから五分おきに時計を眺め、うーんうーんと唸っている昌浩に、新聞を広げている紅蓮が何度目かのため息をついた。
「気になるなら迎えに行けばいいだろう。晴明には言っといてやるぞ」
「でも、じい様を呼び出したのってあの冥官だろ? だったら、やっぱりちゃんと待っててじい様の話を聞かなきゃいけない気がするし…」
 昌浩は数えるほどしか遭遇したことのない相手なのだが、時折神将たちの口にのぼるひととなりを聞くだに、一筋縄ではいかないという印象がいや増していく。
「まぁ、あの男の持ってくる話はなぁ…」
 いろいろと思い出しているらしい紅蓮が天井を見上げて呟く。それを見た昌浩は頭を抱えたくなった。
「うわ、遠い目してるよ」
「聞きたいならいくらでも聞かせてやろう」
「いい。遠慮しとく」
「いやいや、知っていれば心構えができるぞ」
「知らないほうが幸せな場合ってあると思うんだよね。この場合絶対そう」
 そこに、感心した風情の声が降ってきた。
「よくわかってるじゃないか。安倍の次代はさすがに勘がいいな」
 紅蓮が広げている新聞に横から手を出し、一面の見出しをざっと眺めて勾陣は思慮深い顔をした。
「これからぐっと冷え込むか…」
 そうしてふと、思い出した顔をした。
「彰子嬢が来るはずじゃなかったか?」
「うん。そうなんだけど、まだ来てない」
「それで、さっきから五分おきに唸ってるんだ」
 昌浩と紅蓮の顔を見た勾陣は、こめかみに指を当てて目を細めた。
「……確か、図書館に行くようなことを言っていたが」
 昌浩は目をしばたたかせた。
 そうしてふいに、背筋に冷たいものが駆け下りる。ついで、全身がぞわっと総毛立った。
 うなじに引っかかるものがある。なんだ。
「図書館に、行くって…?」
 何かが心臓を叩いた気がした。
 昌浩は図書館にあまり縁がない。学校の図書室も滅多に利用しないくらいだ。必要な書物は全部うちにあるので、困ったことはない。
 無意識に腰を浮かせて、胸の奥をざわつかせるものの原因を探る。
「図書館…、じゃ、ない。ええと、紅蓮、地図あったっけ?」
 言っている間に目の前に地図が出てきた。昌浩はそれを広げて図書館を探す。
 図書館に児童公園などが隣接されていて、その界隈は住宅街から少し外れている。だが、小学校や中学校が近くにあるので、治安はよいほうだ。
 だが、昌浩の焦燥は、そういう代物ではない。
 駅から図書館までの道のりは、大通りを選ぶと少し遠回り。近道はあるのだが、そこは私道のような狭い道幅で、いやに静かだったと記憶している。
 三叉の辻の突き当りを左折して、少し歩くと図書館の横手に出るのだ。だから、明るい時分にはみな近道を行くのだと誰かに聞いたことがあった。
 三叉の辻に、地名が記されている。
 それを認めるなり、昌浩は息を呑んで弾かれたように立ち上がった。
 自室に駆けていって上着を引っつかみ、そのまま玄関に向かう。
 地図を睨んでいた紅蓮と勾陣も同様だった。勾陣は、台所で夕食の支度をしている同胞たちに一声かけていくことを忘れない。
「出かけてくる」
「どうした」
「何かあったの?」
 炊事当番の六合と天后が怪訝に眉を寄せる。ざっと説明して身を翻すと、不穏な気配を察した玄武と太陰が顔を見せた。
「血相を変えてどこへ行くのだ?」
「騰蛇と昌浩が門の前にいたけど…」
 勾陣は、太陰の手を掴んだ。
「太陰、風を頼む」
「えっ?」
 文字通り引きずられていく太陰を、玄武ははたはたと手を振って見送った。
「ちょっと、どうしたのよ」
 わけがわからない太陰に、勾陣は短く返す。
「たぶん、厄介なことになっている」
 門前でじりじりと待っていた昌浩と紅蓮が、勾陣に捕まえられた太陰を見て目を見開いた。
「さすが」
「勾、偉い」
 惜しみない賛辞を勾陣に送るふたりに、置いていかれたままの太陰がわめく。
「だから、なんなのっ」
「図書館の近くまで運んでくれ!」
「図書館? いいけど…」
 紅蓮が瞬きひとつで物の怪の姿になり変わり、太陰の神気が一同を包んだかと思うと、勢いよく空に押し上げる。
「近くって、どの辺り?」
 突風の中で、昌浩は声を張り上げた。
「若宮の辻!」


 ここにいるのは、神ではない。
 彰子はひくりと息を詰めた。
 こんな禍々しいものが、神であるはずがない。
 いままでに彼女は何度も、神と呼ばれる存在に遭遇したことがある。
 大概は昌浩や晴明が一緒で、ふたりに倣っていれば神が機嫌を損なうことはなく、その荘厳な神気に包まれると身の引き締まる思いがした。
 それは、畏敬の念だ。
 だが、これは違う。荘厳さの欠片もない。これを神と呼ぶのは、真の神々に対する冒涜になる。
 それでも、神と呼ばれ、ここに祀られていたことは間違いない。
 そういうものがなんであるのか、彰子は知っていた。安倍の者たちが話していることを聞くとはなしに聞いているから、心の片すみに残っていた。
 妖気が肌を刺す。符の霊力でかろうじて守られている人間の匂いを、探っている。
「………っ」
 これは、神の名を与えられ、その言霊でもって縛られた異形のもの。
 心臓の音がうるさいくらいに響いている。
 そういった禍々しいものを封じる、それが若宮。
 三叉の辻は、悪しきものが流れ着く出口のない吹き溜まり。
 社の奥に封じられていたのは、それらがより合わさって形を成したもの。
 目を閉じていた彰子は、妖気がふっとやわらいだような気がして、そろそろと顔を上げた。
「………っ」
 喉が凍りつく。
 見開かれた彼女の双眸に、映る。
 にたりと笑う、それは異形の鬼だ。
 鬼の唇がゆがむ。見つけたと、嗤う。
 巨体の鬼が腕を振り上げ、かろうじて立っていた鳥居を叩き折る。
 同時に、この地に凝っていた負の念が、戒めを解かれて噴きあがった。
 社が崩れ落ち、鳥居が倒壊する音に、言葉にならない彰子の悲鳴が重なった。
 彼女を取り巻いていた霊力の壁が、音を立てて砕け散る。
 闇に覆われた空に鬼の哄笑が轟き、彰子は頭を抱えるようにしながら叫んだ。
「昌浩……っ!」
 刹那、その場を閉ざしていた結界が、叩き落とされた竜巻に打ち破られた。
 飛び散る涙の中で異形の巨体が大きくのび上がる。突如として生じた炎蛇がそれをはね飛ばし、締め上げた。
 彰子の長い髪が熱風にあおられてひるがえる。
「オンアビラウンキャン、シャラクタン!」
 全力疾走で異形と彰子の狭間に滑り込んだ人影が叫び、霊力の渦が異形の脳天を貫く。
 灼熱の闘気がほとばしり、鬼の巨体を覆い尽くした。
 おぞましい咆哮が轟いた。
 風の中から躍り出た影が彰子をすくい上げその場から飛び退る。半瞬後、彼女の首があった場所に燃え上がる腕が叩きつけられた。
「この…っ、食らえーっ!」
 怒号もろとも放たれた竜巻の矛が鬼の胴に突き刺さる。炎を撒き散らしながら身をよじる異形の鬼を、物の怪の放つ灼熱の闘気がその場に縫い止める。
 昌浩が印を組むと、その全身から研ぎ澄まされた霊力が立ちのぼった。
「臨める兵闘う者、皆陣列れて前に在り!」
 右手で作った刀印を振り下ろしながら、昌浩は怒号した。
「万魔、拱服!」


 吹き荒れる風と神気が凪ぐと、静寂があたりを支配した。
「……勾陣、もう、大丈夫…」
 自分を抱えている神将にそう伝えると、彼女はそっと降ろしてくれた。
 支えを失った途端に膝が砕けそうになる。
「彰子!」
 色を失って駆け寄ってくる昌浩に、彰子は青い顔で笑みを作った。
「ちょっと、気が抜けちゃった…」
「怪我はないか!? どこか痛くしてたりとかは…」
「平気よ。……ごめんなさい、ここは危ないってわかってたのに…」
 まったくだと言わんばかりの顔で睨んでくる勾陣と物の怪を交互に見た彰子は、ふと瞬きをして目を細めた。
「もっくん、久しぶり」
 物の怪は渋面を作る。
「俺はあまり嬉しくない」
 紅蓮は、滅多なことでは異形に変化しないのだ。今回は一刻を争っていたので、人身より軽量の物の怪に変化しただけだ。
 さっさと人身に戻り、紅蓮は倒壊した社を睨んだ。
「若宮の辻とは、よく言ったもんだ」
「ほう、お前もそう思うか」
 涼やかな声音が響く。
 はっと身を翻す紅蓮と勾陣は、それまで夜闇にひそんでいた長身の影を見出した。
「冥官…!」
 剣呑に唸る紅蓮の眼光を正面から見据え、青年はうっそりと笑う。
「次代、少しは腕を上げたか」
 不遜に見下ろしてくる青年を、昌浩は困惑気味に眺めた。
 この青年は、人間と同じ姿をしている鬼なのである。
「あんまり、上達したかどうかはわからないんですけど…」
「上等。身の程知らずよりはよほどいい」
 傲然と断じる青年の言い草に、気分を害した紅蓮が物騒な顔をする。それをもろに見てしまった太陰が、頬を引き攣らせて彰子と勾陣の後ろに逃げ込んだ。
「太陰…」
 呆れたような勾陣の視線に、太陰は身を縮こまらせる。
「いきなり本気で怒る騰蛇が悪いのよっ」
 これでもだいぶましになったんだからという彼女の主張を受け、勾陣は確かにと頷いた。
 黒衣の青年が腰に手を添えると、直刃の太刀が出現する。それを無造作に引き抜いた青年は、剣呑に睥睨してくる紅蓮の前を素通りし、鳥居のあった場所に歩を進めた。
「何を…」
 訝る昌浩に一瞥をくれ、冥府の官吏は低く言い渡す。
「黙って見ていろ」
 太刀の切っ先を下に向けた冥官は、そのまま地に突き立てた。
 刹那、重い音が轟き、そこに澱んでいた気が拡散する。
 青年が太刀を引き抜いて鞘に収めるのを見つめていた彰子は、ふと顔を上げた。
「……空気が…軽い…?」
「ほう。さすがは次代をも凌ぐ見鬼」
 僅かに遅れた昌浩も、彰子の言っている意味に気づく。
「貴様、何をした」
 凄む紅蓮を涼やかに見返し、神将たちと同じくらい端整な面差しを持った青年は、口端を吊り上げた。
「風穴を開けた。じきに若宮の名も消える」
 それだけ言うと、冥府の官吏はきびすを返す。
「おい、待て!」
 青年は、凄絶に笑った。
「なんのために?」
「なん…っ」
 意表をつかれた紅蓮が詰まっている間に、青年は鮮やかに身を翻して忽然と掻き消えた。
 紅蓮は拳を握り締めた。
「こ……の…っ、の…っ、やろう…っ!」
 行き場を失った憤りに身を震わせる紅蓮の肩を叩き、勾陣が嘆息する。
「騰蛇。あれはああいう奴だ」
「…ああ、知っている、知っているとも。ええい畜生、毎回毎回あの野郎…!」
 一連を見ていた昌浩は、なんとなく何かを悟った気分になった。
 きっと、自分も絶対あの御仁には勝てない。
「昌浩…」
 そっと手を引かれて、昌浩は首をめぐらせる。
 彰子がしょげたような目をしていた。
「ごめんね」
「え…? ああ」
 瞬きをした昌浩は、苦笑気味に笑った。
「彰子が無事だったからいいよ。でも」
 少しだけ真面目な顔をして、語調を改める。
「これからは、危ないと思ってるところには、ひとりで行かないこと」
 そばにいなければ、守ることもできないのだから。
 彰子はうんと頷いた。
「約束する」
「絶対だよ」
 彰子は、昌浩の差し出した小指に自分のそれをからめ、指切りをする。
 ままごとのような仕草なのに、ふたりの表情はいたって真剣だ。
 神将たちはほほえましさを覚えながらそれを見守っていた。


 帰宅した晴明から冥官の話を聞いた六合と天后は、思わず顔を見合わせた。
「どうした?」
 首を傾げる老人に、天后が答える。
「おそらく、その件はもう片づいているのではないかと…」
「なんだと?」
 青龍の目が険しくなる。
「確証はないのですが…」
 言い澱む天后のあとを引き受けた六合が淡々と言葉をつなぐ。
「……いずれにしても、昌浩たちが戻ってくればはっきりするだろう」
「なるほど」
 頷く老人の後ろで、青龍は不機嫌さを三割増している。  肩越しにそれを顧みて、晴明はどうしたものかと苦笑気味に肩をすくめたのだった。

 
1 / 2
戻る

(C)2006 結城光流・あさぎ桜/角川書店・少年陰陽師製作委員会